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香りと脳のつながり

〜記憶・感情・パフォーマンスのメカニズム〜

公開日:2024年12月28日|最終更新日:2026年02月12日

色とりどりのチューリップ畑──香りと脳の科学を象徴するイメージ

はじめに:香りが脳に働きかける仕組み

ある香りを嗅いだ瞬間、何十年も前の記憶がよみがえる――そんな経験をしたことはありませんか。

香りは、ただの心地よさではありません。記憶を呼び覚まし、感情を整え、集中力を高める。神経科学の研究は、香りが脳に与えるこうした影響を少しずつ解き明かしてきました。

その鍵を握っているのが、嗅覚の特殊な経路です。香りの成分は、鼻の奥にある嗅細胞で捉えられ、嗅球を経由して大脳辺縁系へと直接伝わります。大脳辺縁系は感情と記憶を司る脳の中枢であり、嗅覚はこの領域に"直通"する唯一の感覚です。[1]

視覚や聴覚の情報は、まず大脳皮質で処理されてから辺縁系に届きますが、香りだけは「考える」より先に「感じる」。特定の香りで昔の記憶が急によみがえるのは、この直接経路があるからです。

さらに香りは、自律神経やホルモンの分泌など、身体のさまざまな機能にも影響を及ぼします。リラックスする香りがストレスホルモンの分泌を抑えたり、覚醒を促す香りが脳の働きを活発にしたり――香りは単なる気分転換ではなく、心と体のバランスを整える力を持っていることが明らかになってきました。

🫧 Salon de Alpha のカウンセリングから

「この香り……早春のお庭の匂いがする」。カウンセリングで精油の香りを嗅いでいただくと、ときどきそんな言葉がこぼれます。そこから、ご本人の中でもずっと忘れていた幼い頃の記憶がふいによみがえり、話が広がっていく。そのとたん表情がふっとゆるみ、声のトーンが変わる。嗅覚が「考えるより先に感じる」回路を持っている、ということを、サロンでは日々実感しています。

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神経科学から見る香りの効果:脳波やホルモンとのつながり

香りを嗅いだとき、脳の中では複雑な反応が起きています。研究によって、香りが脳の活動パターンやホルモン分泌に直接影響を与えることが示されてきました。

たとえば、リラックスを促す香りを嗅ぐと、脳内ではα波(アルファ波)が活発になるという報告があります。α波が増えると心が落ち着き、穏やかな気分になります。一方、覚醒を促す香りではβ波(ベータ波)が増加し、注意力が高まるとされています。[2]

ホルモンへの影響も注目されています。心地よい香りを嗅ぐと、ストレス時に増えるコルチゾールの分泌が抑えられるという報告があります。[3] また、快適な香りがセロトニンやドーパミンの放出を促し、気分の改善につながる可能性も示唆されています。

自律神経系への影響も見逃せません。リラックス効果のある香りは副交感神経を刺激して身体を休息モードへ導き、覚醒を促す香りは交感神経を活性化して集中力や作業効率の向上に寄与するとされています。[4]

香りは脳波、ホルモン、自律神経という三つの経路を通じて、私たちの心身の状態に幅広く働きかけているのです。

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香りの化学:成分とその作用のしくみ

香りの効果の背景には、それぞれの精油に含まれる特定の化学成分があります。成分ごとに脳や神経系への働きかけ方が異なるため、香りを選ぶ際の手がかりになります。

酢酸リナリル・リナロール(ラベンダー)——ラベンダー・アングスティフォリアの主要成分です。α波を増加させ、副交感神経を優位にすることでリラックス状態を促すと報告されています。[2] 誘眠作用のほか、抗不安作用も示唆されており、もっとも研究の蓄積が多い精油成分のひとつです。

リモネン(柑橘系)——オレンジ・スイートやレモン、ベルガモットに多く含まれます。セロトニンの放出を促し、気分を安定させてストレスを和らげる作用があると報告されています。[5]

ℓ-メントール(ペパーミント)——爽快感を与える成分として広く知られています。脳を刺激して注意力を高め、眠気を払う作用があるとされています。[6]

1,8-シネオール(ローズマリー・シネオール、ラヴィンツァラ)——覚醒を促しながらも、呼吸を楽にする作用が報告されている成分です。ローズマリー・シネオールの吸入で記憶テストのスコアが向上したという研究もあります。[8]

ゲルマクレン・β-カリオフィレン(イランイラン)——副交感神経を刺激し、心身の緊張を和らげる作用が報告されています。[4]

α-サンタロール(サンダルウッド)——興味深いことに、吸入では覚醒・注意力を高める方向に作用するという報告がある一方、経皮吸収(マッサージなど)では鎮静方向に働くという研究もあります。[7] 投与経路によって作用が変わるという点は、精油の奥深さを示す好例です。

シトラール(リトセア、レモングラス)——柑橘様の香りを持つ成分で、鎮静・抗不安作用が示唆されています。ラベンダーとは異なる芳香分類でありながら誘眠に寄与するとされ、ブレンドの幅を広げる存在です。

精油は単一成分ではなく、数十〜数百の成分が複雑に絡み合って香りと作用を生み出しています。成分の働きを知ることは、自分に合ったブレンドを組み立てるための大切な手がかりになります。

🫧 サロンから:「好き」は、いちばんの手がかり

アロマは「芳香」、テラピーは「療法」——アロマテラピーは文字どおり「芳香療法」です。私たちが、まず大切にしているのは「この香りが好き」という感覚そのもの。好きな香りを嗅いでいるとき、心と身体はすでにゆるみ始めている。その直感が、いつだって出発点です。

そして興味深いことに、「好きな香りが心身によい影響を与える」という実感を、科学的な研究が少しずつ追いかけてきています。心地よいと感じた香りほどストレスホルモンが下がり、脳波にも変化が現れる——「好き」という感覚は、身体が必要としているもののわかりやすいサインとも受け取れます。

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実験的研究とエビデンス

香りの効果については、複数の大学・研究機関で実験的な検証が行われています。代表的な研究をいくつかご紹介します。

イランイランの鎮静作用——タイのスリナカリンウィロート大学の研究では、イランイラン精油を吸入した被験者の心拍数と血圧が低下し、鎮静効果が確認されました。[4]

オレンジの不安軽減——オーストリアのウィーン医科大学の研究では、歯科治療前の患者にオレンジの香りを提示したところ、不安感と心拍数の有意な低下が認められました。[5]

ペパーミントの認知機能向上——イギリスのノーサンブリア大学の研究では、ペパーミントの香りが注意力や記憶力を向上させることが示されました。[6]

ラベンダーの自律神経への作用——タイのチェンマイ大学の研究では、ラベンダー精油の吸入がα波を増加させ、副交感神経を優位にしてリラックス状態を促すことが報告されています。[2]

ローズマリーの記憶力向上——ノーサンブリア大学の別の研究では、ローズマリーの香りを嗅いだグループで記憶テストのスコアが向上したという結果が得られています。[8]

ただし、これらの研究は限定的な条件下で行われたものであり、万人に同じ効果があるとは限りません。香りへの反応には個人差があること、また研究の多くは小規模であることを念頭に置く必要があります。

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実践的な香りの活用法

研究の知見を日常に取り入れるには、どうすればよいのでしょうか。サロンでの実践をもとに、場面ごとのブレンドのヒントをご紹介します。

ひとつお伝えしたいのは、一つの芳香分類だけだと、どこか物足りなくなるということ。たとえば「眠りたいからラベンダー」だけでなく、異なる成分グループの精油を組み合わせることで、香りに奥行きが生まれ、心身への働きかけもより立体的になります。

🌙 眠りの質を整えたいとき

サロンでよく使うブレンドは、ラベンダー・アングスティフォリア、ラヴィンツァラ、リトセア、オレンジ・スイートの組み合わせ。いずれも誘眠作用があるとされる精油ですが、抗うつ作用も期待でき、穏やかで幸せな気分のまま眠りに入れるのが特長です。エステル類(酢酸リナリル)、酸化物類(1,8-シネオール)、アルデヒド類(シトラール)、モノテルペン類(リモネン)と、四つの異なる成分グループが協調して働きます。就寝30分ほど前からディフューザーで焚くのがおすすめです。

🍃 緊張をほぐしたいとき

オレンジやベルガモットをベースに、イランイランやジャスミンをプラスしてみてください。柑橘の明るさにフローラルの甘い深みが加わることで、緊張が芯からゆるみます。アロマスプレーにしておけば外出先でも手軽に使えます。

🔥 集中力を高めたいとき

ペパーミントはまず外せません。ℓ-メントールの覚醒作用は研究でも裏づけられています。そこにローズマリー・シネオール(1,8-シネオールで記憶力向上)を加え、さらに別の芳香分類からバジル(フェノールメチルエーテル類)を足すと、香りに立体感が出て、注意力の持続もより期待できます。ティッシュに1滴ずつ垂らしてデスクのそばに置くだけでも十分です。

☀️ 朝の気分を切り替えたいとき

レモンやグレープフルーツなど柑橘系で一日をスタート。さらに元気がほしい朝には、ブラックスプルース(針葉樹のすっきりした力強さ)やホーウッド(リナロールの穏やかな覚醒感)を加えると、柑橘だけでは出ない深みと持続力が生まれます。

🧘 サンダルウッドの使い分け

吸入では覚醒・注意力の向上に、マッサージなど経皮吸収では鎮静に働くとされる興味深い精油です。「昼間の瞑想に焚く」「夜はオイルマッサージで使う」というように、投与経路で使い分けてみるのも一つの方法です。

🫧 サロンから:香りが教えてくれた「身体の声」

個人的な体験ですが、毎日楽しんでいたネロリの香りが、ある日突然、鼻がもげるかと思うほど嫌になったことがあります。理由がわからないまま過ごしていたら、少しして妊娠していたことがわかりました。身体が求める香りは、意識よりも先に変わるのだと、このとき初めて実感しました。

妊婦のときのイライラはカモミールティーに助けられ、陣痛の痛みはラベンダーを直接嗅ぐことで和らげることができました。ラベンダーはもともと好きな香りだったので、痛みの中でも安心して身を委ねられたのだと思います。香りの研究データも大切ですが、「自分の身体が何を求めているか」に耳を澄ます経験は、どんな論文よりも雄弁に、香りの力を教えてくれました。

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医療現場での応用

個人のセルフケアだけでなく、医療現場でもアロマセラピーの導入が少しずつ広がっています。

一部の医療施設では、ラベンダーやオレンジの香りを手術前後の患者のストレス軽減に活用しています。緩和ケアの現場では、ペパーミントの香りが吐き気の軽減に用いられることもあります。高齢者施設においては、ラベンダーを活用した睡眠改善や、認知症の行動・心理症状(BPSD)の緩和を目指す取り組みも増えてきました。

一部の心療内科では、ベルガモット、ラベンダー、ネロリ、フランキンセンスなどが不安障害の補助的アプローチとして試みられています。いずれも医療行為の「代替」ではなく、あくまで「補完」として位置づけられている点が重要です。

今後、臨床研究の蓄積が進むことで、香りの医療への統合はさらに進んでいくと考えられます。

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香りと脳の研究、今後の方向性

香りと脳の関係には、まだ解明されていない領域が多く残っています。

たとえば、同じラベンダーの香りでも「落ち着く」と感じる人もいれば「少し苦手」と感じる人もいます。遺伝的な嗅覚受容体の違い、過去の経験に結びついた記憶、文化的背景――こうした複合的な要因が香りへの反応にどう影響するのかは、まだ十分には解明されていません。この個人差のメカニズムが明らかになれば、より個人に最適化された香りの活用法が提案できるようになるでしょう。

また、特定の疾患に対する香りの有効性についても、大規模な臨床試験による検証が待たれています。不安障害、認知症、慢性疼痛など、補助的療法としての安全性と有効性を科学的に裏づけることが、今後の重要な課題です。

AI技術との融合

近年はAI技術を活用し、個人の感情やストレスレベルをリアルタイムで解析して最適な香りを提案するシステムの研究も始まっています。生体センサーとAIの組み合わせにより、「いま必要な香り」をその瞬間ごとに提案する――そんな未来が、すでに研究室レベルでは動き始めています。

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おわりに:香りが拓く心と身体の未来

香りは、私たちの感覚を超えて、脳に、そして心と体に深く作用する力を持っています。神経科学の進展によってその仕組みが少しずつ解き明かされ、香りは単なる嗜好品ではなく、心身の健康を支える重要な要素として位置づけられるようになりました。

科学的な知見と、日々の暮らしの中で感じる「この香りが好き」という直感。異なる芳香分類を組み合わせて奥行きを出すブレンドの技術と、ある日突然「この香りが嫌になった」という身体の声。その両方を大切にすることが、香りを活かす第一歩なのだと思います。

サロンでのカウンセリングも、まさにその交差点にあります。科学が『なぜ』を解き明かすほど、『好き』という直感の確かさが際立ってくる。香りを選ぶとき、その小さな感覚を信じていい——その理由が、少しずつ言葉になってきた時代に、私たちはいます。

📚 参考文献

  1. Herz, R.S. & Engen, T. (1996). "Odor Memory: Review and Analysis." Psychonomic Bulletin & Review, 3(3), 300–313. — 嗅覚が大脳辺縁系に直結し、記憶と密接に結びつくメカニズムの概説。
  2. Sayorwan, W. et al. (2012). "The Effects of Lavender Oil Inhalation on Emotional States, Autonomic Nervous System, and Brain Electrical Activity." Journal of the Medical Association of Thailand, 95(4), 598–606. — ラベンダー吸入によるα波増加と副交感神経優位化の報告。
  3. Watanabe, E. et al. (2015). "Effects of Bergamot Essential Oil Aromatherapy on Mood States, Parasympathetic Nervous System Activity, and Salivary Cortisol Levels." Forschende Komplementärmedizin, 22(1), 43–49. — ベルガモット精油によるコルチゾール低下と気分改善の報告。
  4. Hongratanaworakit, T. & Buchbauer, G. (2004). "Evaluation of the Harmonizing Effect of Ylang-Ylang Oil on Humans after Inhalation." Planta Medica, 70(7), 632–636; Hongratanaworakit, T. & Buchbauer, G. (2006). "Relaxing Effect of Ylang Ylang Oil on Humans after Transdermal Absorption." Phytotherapy Research, 20(9), 758–763. — イランイラン精油の鎮静・リラクゼーション効果。
  5. Lehrner, J. et al. (2005). "Ambient Odors of Orange and Lavender Reduce Anxiety and Improve Mood in a Dental Office." Physiology & Behavior, 86(1-2), 92–95. — オレンジの香りによる歯科患者の不安軽減。
  6. Moss, M. et al. (2008). "Modulation of Cognitive Performance and Mood by Aromas of Peppermint and Ylang-Ylang." International Journal of Neuroscience, 118(1), 59–77. — ペパーミント吸入による注意力・記憶力の向上。
  7. Heuberger, E., Hongratanaworakit, T. & Buchbauer, G. (2006). "East Indian Sandalwood and α-Santalol Odor Increase Physiological and Self-Rated Arousal in Humans." Planta Medica, 72(9), 792–800. — サンダルウッド吸入による覚醒・注意力の上昇。ウィーン大学。経皮吸収では鎮静に働くとする別報告(Hongratanaworakit et al. 2004, Planta Med 70(1):3-7)もあり、投与経路による作用の違いが示されている。
  8. Moss, M. et al. (2003). "Aromas of Rosemary and Lavender Essential Oils Differentially Affect Cognition and Mood in Healthy Adults." International Journal of Neuroscience, 113(1), 15–38. — ローズマリー吸入による記憶テストスコアの向上。

(Author: Etsuko Fukunaga, Founder of Salon de Alpha
NARD Aroma Advisor / JAA Aroma Coordinator)