はじめに
ハーブティーを一杯、手に取る。湯気とともに立ちのぼるカモミールの甘い香りに、ふっと肩の力が抜ける——そんな経験をされた方は多いのではないでしょうか。
私たちが日常のなかで何気なく親しんでいるハーブの知恵には、実はとても長い歴史があります。古代ギリシャの医師ヒポクラテスが薬草を処方し、中世の修道院で修道女が薬草書を編み、ルネサンスの宮廷で貴族が香りを調合した——植物と人間のつながりは、何千年もの時間をかけて育まれてきました。
興味深いのは、当時の経験的な知恵が、現代の科学研究によって少しずつ裏づけられてきていることです。この記事では、時代を追いながら、貴族社会と薬草療法が辿った軌跡を紐解いてまいります。
I. 古代ギリシャ・ローマ──薬草は「教養」だった
ヒポクラテスの処方箋
「自然こそ最良の医師である」——古代ギリシャの医師ヒポクラテスは、そう語ったと伝えられています。彼が残した処方集には、具体的なハーブを用いた治療例が数多く記されていました。
たとえば、呼吸器のトラブルにはタイムを煎じて蜂蜜を混ぜたもの。不眠や神経の緊張にはカモミールのお茶を就寝前に。口腔の感染にはセージの煎じ液でうがいを。いずれも特別な調合ではなく、身近な植物をていねいに用いた処方です。
現代の研究でも、タイムに含まれるチモールには呼吸器感染症の原因菌に対する抗菌作用が認められ[1]、カモミールに含まれるアピゲニンには睡眠の質を改善する効果が報告されています[2]。セージの抗菌・抗炎症作用も科学的に確認されており[3]、2000年以上前の処方が、驚くほど合理的だったことがわかります。
また、ヒポクラテスが提唱した「体液説」は、身体のバランスを薬草で整えるという考え方の基礎を築きました[4]。貴族階級にとって、こうした薬草の知識を身につけることは、健康管理であると同時に、教養と文化的洗練を示す象徴でもあったのです。
クレオパトラとローズの芳香
古代エジプトの女王クレオパトラは、ローズやミルラを美容と精神安定のために愛用していたことで知られています。ローマの将軍アントニウスとの出会いの席では、船上に大量のローズの花びらを敷き詰め、その芳香で人々を包み込んだと伝えられています。
ローズの精油に含まれるゲラニオールやシトロネロールなどの芳香成分は、嗅覚を通じて脳の辺縁系に作用し、セロトニンやドーパミンのバランスを整えることでストレスや不安の軽減に寄与すると報告されています[5]。また、ローズの芳香成分が心拍数や血圧を低下させ、自律神経系を調整して深いリラクゼーションを促す効果も確認されています[6]。一方、ミルラには抗炎症作用があり、古代から美容ケアや入浴儀式に用いられてきました[7]。
花を嗅ぎ、香りをまとい、身体に取り込む。古代の人々にとって、それは単なる贅沢ではなく、心身を整えるための知恵だったのでしょう。
II. 中世修道院──祈りと薬草の静かな研究室
中世ヨーロッパにおいて、薬草学の中心地となったのは修道院でした。各地の修道院にはハーブガーデンが設けられ、植物療法に関する体系的な研究と実践が行われていたのです。
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの薬草書
12世紀のドイツ、ベネディクト会の修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは、薬草療法史において特筆すべき人物です。彼女が著した『フィジカ(自然学)』や『原因と治療』には、ラベンダー、フェンネル、カレンデュラなど数百種にのぼる薬草の使用法と効能が詳細に記されています。
現代の研究でも、カレンデュラには傷の治癒を促進する抗炎症作用や皮膚再生作用が認められ[8]、フェンネルには消化促進作用や抗酸化作用が確認されています[9]。ヒルデガルトの処方を基にしたハーブ製剤は、今もヨーロッパ各地で広く親しまれています。
修道院の薬草園
スイスのザンクト・ガレン修道院には、9世紀頃に作成された設計図が現存しており、広大な薬草園の配置が明確に描かれています。薬草は医療目的だけでなく、精神的な安定や修道士たちの健康維持のために体系的に育てられていました。
フランスのクリュニー修道院やイギリスのウェストミンスター修道院でも、薬草の効能を記録した詳細な薬草書(ハーバル)が作成されました。栽培法、処方、注意すべき副作用まで細かく記されたこれらの文献は、やがてヨーロッパ全土へと伝わり、宮廷医療の基盤ともなっていきました。
🫧 サロンから:カモミールと私の、長いつきあい
カウンセリングという仕事をしていると、いろいろな方とお会いできます。けれど、はじめましての方には今でも少し緊張します。そんなときにはカモミールティーを一杯。甘くてやさしい香りをひと呼吸吸い込むと、「大丈夫、きっといい時間になる」と思えるのです。ヒポクラテスが2000年前に処方していたのと同じハーブに、現代でも助けられている。植物との縁は時代を超えるものだなと感じます。
III. ルネサンス──宮廷を彩る香りと錬金術
メディチ家と香りの文化
ルネサンス期、フィレンツェの名門メディチ家は薬草療法や植物学を熱心に保護・奨励しました。メディチ家の一員であり、後にフランス王妃となったカトリーヌ・ド・メディシスは、宮廷に専属の薬草師や錬金術師を招き、調香や美容療法、解毒剤などの高度なハーブ療法を取り入れていました。
彼女が愛用した「アックア・デッラ・レジーナ(女王の水)」は、ベルガモット、ネロリ、ローズマリーをブレンドした香水兼医薬品として知られ、後世の香水文化にも大きな影響を与えています。
ハンガリーウォーター──若返りの香り
「若返りのハーブ」として宮廷で広く愛されたのがローズマリーです。16世紀のハンガリー女王エリザベートは、ローズマリーを主成分とした「ハンガリーウォーター」を愛用し、その若々しい美貌を維持したと言われています。この香水は、香水史上もっとも古い処方のひとつとして知られています。
ローズマリーには抗酸化作用や血行促進効果が認められており[10]、精油に含まれる1,8-シネオールには記憶力を向上させ、認知機能を改善する効果があることも報告されています[11]。
ラベンダーと疫病予防
ルネサンス期の宮廷では、ラベンダーも特別な存在でした。貴族たちはラベンダーのポプリや精油を部屋や衣類に用いて清潔を保ち、ペストなどの疫病予防にも役立てていました。現代の研究でも、ラベンダーの精油には抗菌作用に加え、ストレスや不安を和らげる鎮静作用があることが確認されています[12]。
宮廷のハーブガーデンも、この時代に大きく花開きました。薬草を育てる場であると同時に、貴族たちが知識や芸術を共有する社交空間でもあった庭園は、富と知性、文化の象徴としてもてはやされたのです。
🫧 サロンから:ハーブガーデンという「小さな薬局」
能登のサロンには小さな庭があり、何種類ものローズやラベンダー、カモミール、クロモジなどを育てています。梅雨前に摘んだラベンダーを乾燥させてサシェにしたり、摘みたてのミントをフレッシュティーにしたり。ルネサンスの宮廷庭園にはとても及びませんが、「自分の手で育てたハーブでケアをする」という感覚は、きっとあの時代の人たちと同じなのではないかと思います。
IV. ヴェルサイユからヴィクトリア朝へ──庭園という知性
ポタジェ・デュ・ロワ──王の菜園
ヴェルサイユ宮殿には「ポタジェ・デュ・ロワ(王の菜園)」と呼ばれる庭園がありました。太陽王ルイ14世の命を受け、造園家ジャン=バティスト・ド・ラ・キンティニーが1678年から1683年にかけて設計・建設したこの庭園は、王室の健康管理と植物療法の研究拠点でもありました[13]。
宮廷では、香りは医学と宗教と社交が交わる場にありました。宴の間にはローズマリーやタイムのポプリが置かれ、礼拝堂ではフランキンセンスやミルラが焚かれ、社交界では貴族それぞれが専属の調香師に特別な香水を調合させました。なかでもマリー・アントワネットの調香師ジャン=ルイ・ファージョンは、プチ・トリアノンの庭の花々を蒸留して女王だけの香りをつくったと記録されています。
ヴィクトリア朝の庭園──科学と美の融合
19世紀のイギリスでは、ハーブガーデンが上流階級の知性の象徴となりました。ヴィクトリア女王自身も植物愛好家で、ウィンザー城やオズボーン・ハウスの庭園にはラベンダー、ローズマリー、タイムなど多彩な薬用ハーブが整然と栽培されていました。
ケント州シシングハースト城の庭園主であったヴィタ・サックヴィル=ウェストは、ラベンダーやカモミールをはじめとする薬草の栽培で知られ、その優美なガーデンデザインは現在も多くの人々を魅了しています。これらの庭園は、植物への理解を通じて人間の精神や文化が深化していく過程を体現するものでもありました。
V. 現代に受け継がれる植物の知恵
王室のティータイム
英国王室には、ハーブティーを日常に取り入れる伝統が今も息づいています。エリザベス2世は午後のティータイムにカモミールティーを愛飲し、キャサリン妃はペパーミントティーを日常的に楽しんでいると伝えられています。ヘンリー王子とメーガン妃の結婚式では、エルダーフラワーの風味を取り入れた特別なケーキが話題になりました。
カモミールの鎮静作用と睡眠改善効果は多くの臨床研究で裏づけられており[14]、ペパーミントには消化促進やリフレッシュ効果が報告されています[15]。エルダーフラワーも免疫力強化に有効であることが示されています[16]。
キャサリン妃はスキンケアやリラクゼーションにもラベンダーを取り入れ、特に出産後のケアに積極的に用いたことが伝えられています。何世紀にもわたって受け継がれてきた習慣には、やはり理由があるのです。
ルネサンスの処方と現代ハーバリズム
興味深いことに、ルネサンス期の薬草書に記された処方は、現代のハーバリズムと驚くほど似ています。喉の痛みにセージの浸出液でうがいをする方法は、当時もいまも同じ。タイムを蜂蜜とともに煎じて呼吸器の不調を和らげる処方も変わりません[17]。
また、中世修道院で感染症予防に用いられたエキナセアは、現代でも免疫力を高めるハーブとして親しまれており、風邪やインフルエンザへの有効性が報告されています[18]。ヒルデガルトが皮膚トラブルに重宝したカレンデュラ軟膏は、ドイツでは今も薬局で手に入る身近な自然療法薬です。
伝統的な知恵と現代科学が重なるところに、ハーブ療法の確かな価値があります。
🫧 サロンから:植物の力に助けられているのは、私自身です
カウンセリングの最初に、その日のお客さまの体調や気分を伺いながら、ハーブティーをお淹れすることがあります。緊張されている方にはカモミールを、頭をすっきりさせたい方にはペパーミントを、気持ちが沈んでいる方にはエルダーフラワーにレモンをひとしぼり。「おいしい」と言ってもらえた瞬間、まだ何も話していないのに、もう対話が始まっています。
私自身も、植物の力にいつも助けられている一人です。アマン東京スパの「クロモジティージャーニー」を体験したときのこと。まずクロモジの枝をチップ状にしたものをクレイと混ぜ合わせて全身に塗布し、クロモジティーを注いで全身をパック状態に包む。葉の爽やかさと枝のウッディな深みが重なり合う、その香りの多層性に驚きました。けれどこれはまだ序章で、メインはクロモジのオイルトリートメント。主成分リナロールの鎮静に全身をゆだねていくうちに、意識はどんどん深いところへ沈んでいきました。施術の途中、違う名前で呼ばれる夢を見たのです。自分の名前さえも解き放ってしまうほどの、深い静けさの中にいた。ヒポクラテスも修道女ヒルデガルトも、きっとこういう植物の力を知っていたのではないかと思うのです。
おわりに
古代ギリシャの処方箋から、修道院の静かな薬草園、ルネサンスの華やかな宮廷、そしてヴィクトリア朝の知的な庭園へ。植物と人間のつながりは、時代も国境も越えて、ずっと途切れることなく続いてきました。
そしてその知恵は、今もカップ一杯のハーブティーの中に、精油の小さな瓶の中に、静かに息づいています。
私たちのサロンもまた、そうした長い歴史の延長線上にある場所でありたいと思っています。植物の力を借りて、心と身体の声に耳を傾ける。その小さな時間が、あなたの毎日をすこし軽くするお手伝いになれたなら幸いです。
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(Author: Etsuko Fukunaga, Founder of Salon de Alpha)